「『繻子の靴』上演のための実践的研究」観劇記

「『繻子の靴』上演のための実践的研究」

作:ポール・クローデル
翻訳・構成・演出:渡辺守章
映像・美術:高谷史郎
出演:鶴坂奈央、千代花奈、永井茉梨奈
10月5日、京都造形芸術大学春秋座。

台風18号が接近しつつあり、前線の影響か、京都は10月というのに、蒸し暑かった。
10月5日、京都造形芸術大学の春秋座で、ポール・クローデルの代表作『繻子の靴』の実験試演会が行われた。
内容としては、1時間の解説(渡辺守章浅田彰(聞き手))、50分程度の抜粋場面の上演、というものであった。
さて、渡辺守章は、これまであまり注目されてこなかったマラルメの演劇への志向をクローデルというマラルメの弟子の演劇から、逆にさかのぼる形で、発見し た。その研究の成果として、マラルメの演劇論を、これまでの「マラルメ・プロジェクト」というマルチメディア・パフォーマンスの試みのなかで、3年かけ て、実践してきた。前回3月に行った公演、クローデルの『繻子の靴』「二重の影」は、その発展的試み、ということであった。シアトリカル、バーチュラル、 そしてあらゆる芸術についてハイブリッドな、マラルメの演劇論、クローデルの演劇像、このプロジェクトは、それに迫っている。

まずは、作者と作品について少し触れることにする。
ポール・クローデル(1868~1955)は、19世紀末から20世紀を代表するフランスの劇作家、詩人である。また、第一級の外交官であり、思想的に は、敬虔かつラディカルなカトリック教徒であった。少年期はランボーに感化され、パリに上京後、マラルメの門弟として、象徴主義の詩人、劇作家として出発 した。姉は有名な彫刻家、カミーユ・クローデル。日本とのかかわりとしては、世紀末のオリエンタリスムから出発し、1921年から、27年にかけて、日本 に駐日大使として駐在し、様々な文化を見聞した。それは、この『繻子の靴』にも大きな影響を及ぼしている。
『繻子の靴』。1919年から1924年にかけて書かれたこの作品は、執筆期間が彼の日本滞在時と完全に一致している。したがって、日本の伝統演劇からの 影響も多分に見られる点が、特徴的であるのと同時に、彼の人生、思想、演劇論、広大なパースペクティヴのほぼすべてが凝縮された大長編戯曲である。舞台は 世界、この地球上すべてである。時代は、16世紀、大航海時代無敵艦隊のスペイン黄金時代である。スペインの海賊上がりの将軍、ドン・ロドリッグと、ス ペインの大審問官ドン・ペラージュの美しき妻、ドニャ・プルエーズの、時にアメリカ―アフリカと海を隔て、時に夢の世界で出会いながらも、地上では決して かなわぬ恋が、天井世界で果たされるという壮大な物語である。そこに、幻想的なドニャ・ミュジーク(音楽姫)とナポリの副王の恋という副筋があり、また、 随所にファルス的な要素や、不条理劇のような場景が挿入されたりしている。
手法としては、歌舞伎や能といった、日本の伝統劇(あるいは中国演劇)、スペイン黄金時代のバロック劇、象徴主義演劇、(あるいは50年代不条理劇の先取 り的手法)テーマ系としても、老荘思想、中国の説話、キリスト教劇、自らの不倫愛、といった様々な相が折り重なった多層的戯曲である。構成としては、1日 目から4日目までに分けられている。必ずしも4日間の物語というわけではないのだが、この形式は、カルデロン等のスペインバロック演劇からとった形式であ る。

今回の上演は、1日目第5場「聖母への祈り」、2日目第13場「二重の影」第14場「月」、3日目第8場「プルエーズの夢―守護天使」という、ドニャ・プ ルエーズというヒロインに焦点を絞った場面構成であった。プルエーズの叶わぬ恋への苦悩が、その主眼である。男を誘惑し、破滅させつつ、自らもその叶わぬ 恋に苦悶し、自らの死という選択、自己犠牲によって、恋い焦がれるドン・ロドリッグと彼の精神世界、天井世界のうちに結ばれる、という禁じられた破滅的 恋。
1日目第5場「聖母への祈り」では、スペインのドン・ペラージュの妻であるドニャ・プルエーズが、ペラージュの館の門前のマリア像の前で、祈る。自らが、 自分を愛する男たちの不名誉の原因となるように。そして、悪のほうに、夫やその身の任務を捨てて、愛するドン・ロドリッグ(プルエーズとロドリッグは、以 前、ロドリッグの船が難破し、ペラージュ館の海岸に漂着したところ、プルエーズの介抱をうけ、二人は恋に落ちていたのだった。)のもとに走ってしまわない ようにと、心臓と、片方の靴を捧げる。悪の道に走り出しそうになっても、片方の足が萎えますようにと。しかし、常に逃げ出そうと画策する、とも叫ぶ。禁じ られた恋の悲痛さがほとばしる。
今回の舞台では、俳優の數の問題か、ドン・バルタザールは登場しなかった(つまりペラージュ館を出発するおり、突如として始まるプルエーズの絶叫的祈りか らである。)が、そのぶんプルエーズの情念のままに行動してしまいそうな自分への苦悶が鮮鋭化した。このころはまだ純粋な恋い焦がれる姿である。
舞台美術は元ダムタイプの高谷史郎。舞台中央、背景というには少し手前にはりだしている縦長のスクリーンに、様々な映像を映し出していくという手法をとっ ている。この場では、イエスを抱くマリアの肖像(たぶんなにかしらの有名絵画からの引用なのだろうが、小生の不勉強により、定かならず、軽薄。)が映し出 される。
2日目第13場「二重の影」第14場「月」は、ドニャ・プルエーズと、ドン・ロドリッグの夢の世界での交わりが描かれる。実際には海をへだて、新大陸アメリカとアフリカのモガドール要塞にいるのだが、夢の世界の内に、二人の影は重なり合う。
これは、前回の上演、つまり、今年3月に行われたマルチメディア・パフォーマンス「二重の影」と比較することが可能である。
前回は、台詞のないコンテンポラリー・ダンスと高谷の映像作品のコラボレーション的作品だった。白井剛と寺田みさこによるコンテンポラリー・ダンスは美しかった。そこに渡辺守章、後藤加代による朗読が加わっていた。
今回は、俳優が、台詞を言い、踊る。「マルチメディア・パフォーマンス」ではなく、れっきとした「演劇」であった。
前回の公演では、盆を回しながら、ダンサー二人の折り重なる影をスクリーンに照らし出す形をとっていたが、今回は、俳優に黒いヴェールを頭からかぶせ、身 にまとったロドリッグとプルエーズの影が、折り重なりあうという形をとっていた。雰囲気としては、20年代のノイエタンツや、表現主義的なダンスの色合い が強かったように思う。なので、前回の美しい流麗なコンテンポラリー・ダンスよりも、より、書かれた当時の同時代的な文脈にそったかたちではあっただろ う。というのも、この「二重の影」の執筆時期は、歌舞伎俳優中村福助らが結成した新舞踊グループ「羽衣会」の要請によって、舞踊詩劇『女とその影』の執筆 時期と重なっているからである。新舞踊運動とは、当時のドイツなどの同時代のモダンダンス等を日本舞踊に受容しようという大正期の演劇運動で、歌舞伎俳優 のなかでは、中村福助の羽衣会、市川男女蔵、尾上栄三郎らの踏影会が活動していたのだ。そういった1920年代の前衛芸術の流れを演出に取り入れたのであ ろう。
スクリーンには、窓が二つみえる白い壁が映し出される。スペイン風のアフリカの海岸沿いの白壁。高谷の映像美術が美しい。細密な映像美術と抽象的な俳優の動きの混ざり合いであった。
前回、ダンスに朗読、という形で成立していたのは、その台詞が、二人の影が語るという構造だからである。「このわたしは、わたしはいったい誰の影といえば よい?引き裂かれた男と女、それぞれの影ではなく、そうではなくて、二人同時に、わたしのなかで互いに一つにいりまじり、ただ一体の異形な黒い影、この新 しい存在とはなった。」今回は、二人の俳優が同時に台詞を唱える。歌舞伎などで使われる篠笛の音が、ときおり聞こえてきては、幽明の世界であることを物語 り、場に緊張感を与える。
そして、「月」の場。影は消え、スクリーンに大写しの月が出現し、実際に月役の俳優が登場。この月役の女優はなかなか長身で、台詞もうまく、舞台映えがし た。よかった。(永井茉梨奈)この場は、月という役が、二人について物語るという、語り物構造をとっている。初版では月しか登場しないが、上演台本にする 際、プルエーズの台詞のところには、プルエーズの役名が明記されており、ロドリッグの役に関しても同様である。今回の上演でも、その方式をとっていたが、 文楽の太夫のごとく、すべてを月が語るという方法も可能である。「今ようやく、しっかりと分かったのだろうね、男と女は、天国以外の場所では愛し合うこと ができないと。」
3日目第8場「プルエーズの夢―守護天使」。
プルエーズは、この時点で、すでに、最初の夫、ドン・ペラージュの死後、モガドール要塞守備のため、背教者ドン・カミーユ(そういえば、カミーユという名 は、クローデルの姉と同じである。)と政略結婚し、子供までもうけているのである。しかもその子供は、一度もロドリッグとの性交渉がないにも関わらず、ロ ドリッグと瓜二つなのである。
プルエーズは眠っている。異国趣味の布のなかで。スクリーンには、地球が映し出される。その地球は、白い雲なのか砂嵐なのかというようなものにけぶりなが ら、日本列島に変容し、また、富士山になり、富士山は、プルエーズの守護天使へと変容する。ここでも、高谷の映像技術がフル活用されていた。こういったス クリーンの使用は、単なる思い付きで現代のテクノロジーを組み込んでいるのではなく、クローデルによって、すでに志向されていることである。クローデルは すでに当時先端的表象芸術である映画の演劇への使用を模索していた。それは、ラインハルトら、同時代人たちと同じか、彼のほうが少し早いくらいである。こ の『繻子の靴』の次の作品、『クリストファ・コロンブスの書物』では、さらに明確にそのスクリーンへの投影技術の使用への言及がある。
ロドリッグの声が聞こえてくるが、それも次第に聞こえなくなる。そして、守護天使が登場する。文庫の注によると、これは、クローデルの中では、奈良で見 た、という毘沙門天のイメージである。守護天使とプルエーズの対決。プルエーズは、守護天使によって、魚を釣るがごとく、心臓にささった釣り針によって、 海へと引き戻されてしまいそうになる。演出ではこれをクローデルが滞日中に見た『桜姫東文章』の改作ものからクローデルが着想したと「連理引き」の手法を 使ってそれを表現した。守護天使は、エキゾチックないでたちで、日本的というよりは、ヨーロッパ的文脈でのオリエンタリスムがイメージする中東、イスラー ム圏の様相である。そして、歌舞伎的というか、バリ島の舞踊のような、記号的動作(アルトーが『演劇とその形而上学』で述べるような)である。プルエーズ の肉体はもはや用がなくなり、魂のみとなる。この世においては、その魂と肉体が、ロドリッグを苦しめ続ける。だが、もう少しだけ、プルエーズは、彼が自分 のもとにやってくるまで、この苦しい現世にいさせてくれと懇願する。守護天使は、死して彼女が星となることを約束し去っていく。
とりあえず、眼目は、クローデルの劇文体を日本語でどのように発話しているか、という劇言語の問題なのであったのだが、そこに関してはなかなか考えるとっ かかりをみいだせなかった。しかしながら、文庫版の『繻子の靴』で試みられているような、独特な改行、句読点といった翻訳の手法は、セリフ回しの端々に表 れているように感じられた。これはなかなか難しそうな台詞であり、俳優はさぞたいへんであったことだろうと思われる。
ともあれ、やはり戯曲を読んでいるだけなのと、実際に舞台化されている作品を見るのでは、見え方が全然違う。勉強になり、個人的に大変うれしい機会でありました。