木ノ下歌舞伎「心中天の網島」 ~珠玉の4分の1~

最近の木ノ下歌舞伎はチケットがけっこう争奪戦である。前回公演の「黒塚」のときは、当日券の列が、僕で終わってしまい、一緒に行った母は観られなかった。つい先日は、あの、東浩紀が主宰するゲンロンカフェで、早稲田大学教授の児玉竜一氏と主宰の木ノ下裕一氏が公開対談を行った。公演をうつたびごとに、新聞でも大きく取り上げられることが増えた。
ことほどさように最近の木ノ下歌舞伎は飛ぶ鳥を落とす勢いである。
さて、では、木ノ下歌舞伎とはどういったものなのか、少し概観しておく。
木ノ下歌舞伎とは、木ノ下裕一氏が主宰する演劇ユニットである。特定の演出家、劇団員をもっているわけではない。毎回、公演ごとに演出家を招聘し、出演俳優のオーディションを行う。とりあげる作品は歌舞伎の古典作品である。歌舞伎の古典作品を現代的な解釈によって、換骨奪胎し、戯曲としての価値、その魅力の再検討を行っている。
これまでには、「勧進帳」、「三番叟」、「夏祭浪花鑑」、「菅原伝授手習鑑」の「寺子屋」、「道成寺」、通しでの「義経千本桜」、「黒塚」、「三人吉三」「東海道四谷怪談」などを上演してきた。
そして今回は、満を持して(だと筆者は勝手に思っている)近松門左衛門の名作中の名作、「心中天の網島」を取り上げた。これまで、近松作品がなかったのは、意外である。
個人的に彼らの作品では、上演時間の4分の3は退屈である。がしかし、4分の1が珠玉の出来であり、膝を打ってたたきすぎて膝が痛くなる。と、そんな塩梅である。それには、ひとつ、彼らの稽古方法に言及しなければならない。それは彼らが「完コピ」と言っている、大歌舞伎の映像を見て、まずそれをせりふ回しから、所作から、完全にコピーするところから稽古をスタートさせるという方法である。
その弊害か、木ノ下歌舞伎は総じて、現行歌舞伎では上演が途絶えているシーンの完成度が非常に高い。逆に現行歌舞伎をなぞっているシーンは割と退屈になりがちである。そんなことしてるんだったら、歌舞伎座行くわ、となるわけである。特に今回の「心中天の網島」(以下、通称の「紙治」と略記する)でも、現行歌舞伎ではあまり上演のない、橋尽くしの「道行」の出来が出色である。前回も、「四谷怪談」では、「夢の場」が本当に素晴らしく、同年に大歌舞伎で染五郎が久々に出した夢の場なんか目じゃなかった。木ノ下歌舞伎は演出家が変われど、この回想的シーンの情緒が素晴らしい。浄瑠璃の折り目折り目、現在の悲劇的状況と、過去の栄華あるいは、幸せだった日々、といったコントラストを木ノ下は補綴で巧みに掬って可視化していく。浄瑠璃の日常と非日常、過去と現在、を見せることに木ノ下は非常にたけている。僕は、彼は、アフタートークなのでの軽妙かつ、上方の人気急上昇中の二つ目の落語家さんみたいなおかしみがある語り口とは裏腹に、とてもロマンチシストなのだと推測する。
先ほど、「完コピ」の話をしたが、だから、僕は、木ノ下歌舞伎が、現行歌舞伎のレパートリーに準じる必要は全くないと思っている。だから、近松でも上演が途絶えている、「けいせい仏が原」とか、「傾城反魂香」の通しとかやったらいいのだと思う。あと、木ノ下歌舞伎の方法論にそぐわないかもしれないが、新歌舞伎にもとりくんでほしい。たとえば戦後の日本政治の精神史を新歌舞伎の劇作品からひもとくような形でオムニバス上演するとか、そういうものは是非みてみたい。きくところによると北条秀司の「伊井大老」などは、学生運動を題材にしていると北条氏も公言しているらしいし、長谷川伸などの股旅物とアウトローと戦後日本、なんてのも面白そうなテーマ系ではないか。戯曲には、その時代の空気が織り込まれている。それと現代を接続するなら、なにかしらの文脈もできるだろうし、そのとりあげた戯曲の上演の必要性がより浮彫りになるのではないかとも思う。
もうひとつ、木ノ下歌舞伎の特徴を記しておこう。それは、言語態をいくつかの層にわけて、多層的な言語空間を作っている、という点である。実際に歌舞伎の台詞を歌舞伎のせりふ回しで言う層、そして、台詞を現代語に直している層、あといくつかあったかと思うが失念した。彼が、いかにテキストを立体的に組もうとしているかがわかる証左である。だから、木ノ下は、歌舞伎は歌舞伎でも、戯曲が好きなのだ、そこで繰り広げられる劇構造が好きなのだ。俳優の至芸では必ずしもないのではないかとさえ思う。
木ノ下自身、贔屓の歌舞伎俳優がいないのだそうである。これは歌舞伎ファンとしては決定的におかしなことで、絶対贔屓の役者というのはいてしかるべきなのである。そして、好きな役者に今度は何をやってほしい、だとか、早くあいつにあの役をやらせてやれや松竹の馬鹿野郎、などと思うのが、歌舞伎ファンの常なのである。彼は、落語、能狂言文楽、歌舞伎、とそれぞれ自分の小学校、中学校、高校、大学、とそれぞれの時期に決めて、その伝統芸能に触れてきたのだそうである(順番は忘れた)。だから歌舞伎も、べつにそこまでの熱をもって接しているわけではない。それなのに、研究対象としてのめりこむ衝動はどこから湧いてくるのか不思議である。つまり、木ノ下さんに聞いてみたいのだ。「戯曲テキストと向き合い、それを上演するのであれば、なぜ、歌舞伎のホンなのですか?」と。彼らがやっていることは、あくまで歌舞伎の戯曲を扱っている。それが、彼らの取り組みの決定的に新しい点で、これまで意外といなかったのである(もちろん、俳優座文学座で「四谷怪談」を上演したり、というのはあるが)。これまでの歌舞伎の現代演劇への移入は、古くは鈴木忠志や、唐十郎、少し時代が下って、花組芝居橋本治の活動は難しいが、基本的にそのカッコつきの、新劇によって忘れさられていた日本の「伝統的」な身体の復権、という意味で、主にその俳優術(腰を使った日本舞踊や仕舞いのような動きや、女形)にその特徴を求めた。が、しかし、木ノ下は、戯曲というもののもっているポテンシャルに目をつけた。歌舞伎の戯曲を現代の演出家で上演したらどうなるだろう、と。歌舞伎を研究対象として対峙しなければ絶対に思いつかないであろう着眼点だと思うのだ。大学の日文科のゼミで歌舞伎に触れる、というのなら別だと思うが。つまり、どういう質問なのかというと、「では、純粋に人形浄瑠璃の床本でいいではないですか?」ということである。実際最近では、木ノ下歌舞伎も結構俳優の身体性(俳優の技量)によっているところが多いとは思うが、数年前までは、俳優よりも人形を使った方がいいのではないか、というぐらい、戯曲をいかに現代的なセノグラフィー上で表現するか、というところが肝だったように思われる、というのは、いささか乱暴だろうか。
さて、前段の話が長引いた。ここからは、少し、今回の作品についての短評としたい。
まずは、『名作歌舞伎全集』の戸板康二の解説から。シンジュウテンノアミジマ。享保5年12月6日初日。竹本座に、近松門左衛門によって書き下ろされた。同年の10月におこった大阪網島の大長寺での、天満お前町の紙商治兵衛の情死事件を題材にしている。
劇評家水落潔はこの『河庄』を最も好きな芝居として挙げている。現藤十郎の『河庄』は本当に素晴らしい。だが、しかし、木ノ下歌舞伎は、大阪の風情とか、匂い立つ色気、とか、そういうのを追及しているわけではない。江戸なのか、上方なのか、はたまた近未来なのか、その無名性が強調される。そこには、古今東西、普遍的であろうテーマ、妻子もいるくせに風俗嬢にいれあげ、結果、個人商店のため、店の帳簿とレジの売り上げに手を出して、通いまくる、貢ぎまくる、という物語が浮き彫りにされつつ展開される。そういうふうに治兵衛像を掘り下げると、なるほどなあ、と思った。ださくて、女の子の営業トークを真に受け、「一緒に死のう」とわりとなんとなくいいかわしていて、そういううちにあの子はぼくのものだ、という独占欲で、自らもがんじがらめになっていく。日髙啓介の治兵衛はクズっぷりがよい。島田桃子の小春は、情があってあたたかい。それでいて、やはり水商売の軽さも忘れない。伊東沙保のおさんも近所も公園のママ友にいそうである。同級生だけど、ちょっとしっかりしているお姉さん気質という感じ。武谷公雄(孫右衛門)は、もはや木ノ下歌舞伎に欠かせない存在なのではないだろうか。圧倒的に技巧的である。
紙治内で、おさんが家財道具を質入れするところで、この状況下でも、ミスチルのCDを売るときに未練たらしい顔をする治兵衛像(これは日置貴之氏がSNSで書かれていたが)を構築したのは、藤十郎の治兵衛を見続けているだけでは到底達しえない読解だろう。
道行での(治兵衛)「そういえば、二人で店の外で会うのって初めてだね」とか(治兵衛)「おっぱいみせて」(小春)「次の橋まで行ったらおっぱいみせてあげる」とか、(治兵衛)「小春走るの遅いよ、Hのときはあんなにスタミナあるから運動得意だと思ってた」とか、そういう造形は素晴らしかった。そしてそれが情感たっぷりに描かれるのだから、自然と涙がこぼれるというものだ。
アゴラ劇場の舞台には、白い平均台が所せましと置かれており、蜘蛛の巣のようである。交錯する屈折しつつひたむきな恋、恋慕、がんじがらめなドツボ的世界が美しい雪景色のように表現される。そして、演出の糸井幸之介の音楽劇としての仕上がりがとても良い。音楽が心地よく、劇的高揚感をかきたてるのに申し分ない。
歌舞伎の海に深く潜っていく、木ノ下歌舞伎から今後も目が離せない。

                                岡村正太郎
(10月1日、こまばアゴラ劇場

SMAPという伝統芸能

ちなみに筆者は、SMAPにも、ジャニーズにも、なんら深い思い入れはないし、あまり詳しくもない、ということを最初に断っておく。
スマップは、伝統芸能である。それは80年代アイドル芸という伝統芸能である。つまり80年代アイドルというものは、80年代の終焉と共に、伝統芸能化す ることで生き残ったのだ。もはや、80年代というものは、ある世代の一定層にとっての、過去の栄光の時代として、もはや伝統芸能として自律、生き始めてい るのではないかと思うのである。その端的な例が、SMAPなのであると考える。
SMAPとは何か?もうSMAPの時代じゃなくて、嵐よ、とか、キスマイよ、などという声も聞こえてきそうであるが、ちょっとした問題提起をしておきたい。
ゼロ年代というものが論じられ、AKBを扱った新書が出たり(前田敦子はキリストを超えたうんぬん、なんというような題は話題となった)、アイドル文化が 市民権を得た(ように見える。とんだ道化のようにも、ただのコンテンツ産業にしかみえなかったりするが、まあそれはそれでおいといて)。ここで、80年代 末~90年代という一見サブカル不毛の時代(?)―少なくとも、宮崎勤の事件や、オウム事件で「カルト」的サブカルは地下で、それこそアンダーグラウンド で息をひそめなければならない時代に陥っていたといえるだろう―におけるアイドルたちは生き延びる術として輝かなりし「80年代」のサブカル文化、アイド ル文化をそのまま冷凍保存しながら生きながらえるという方法をとったのだ。テレビの世界で。「SMAP」はその申し子だ。スマップは80年代を生きてきた アイドル好きなオタク(女性)たちをそのまま抱え込んで、ファン層として獲得し、固定層を堅持しつつ、若い女の子たちのハートをもつかみながら活動してき たのだ。だから、SMAPのファンは、SMAPより年上の、おばさまたちが多いだろう(偏見)。
SMAPは、そういうファン層(受容層)をしっかり狙ったSMAPをプロデュースした人たち(ジャニーさんはやっぱり天才だ)の戦略的商品だ。
そうそう、とりあえず、まずスマップというもの、そのものについて。Wikiから拾ってきましたよ。
スマップは、1988年結成、92年メジャーデビュー。この時代的な文脈では何を仮定することができるだろうか。それはおそらくSMAPは80年代の残り 火、余韻として発生しており、その成立過程からして、ごく自然に、懐古趣味的なニュアンスを持って、80年代というものを背負ってデビューした、というこ とである。
所属事務所はジャニーズ事務所。レーベルはビクターエンターテイメント。メンバーは、中居正広(なかい まさひろ、1972年8月18日~、神奈川県出身、A型)、木村拓哉(きむら たくや、1972年11月13日~、東京都出身、O型)、稲垣吾郎(いながき ごろう、1973年12月8日~、東京都出身、O型)、草彅剛(くさなぎ つよし、1974年7月9日~、埼玉県出身(出生地は愛媛県)、A型)、香取慎吾(かとり しんご、1977年1月31日~、神奈川県出身、A型)、である。以前には、森且行(もり かつゆき、1974年2月19日、東京都出身、B型)というメンバーも参加していたが、1996年に脱退、オートレーサーに転身した。とにもかくにも、押 しも押されぬ日本の芸能界のトップレベルの人気を誇る。
では、そもそもなぜこんなSMAPへの熱い思いを書きたくなってしまったのかというところから話をしたほうがよいだろう。それは、少しさかのぼるが、年末 に見た紅白歌合戦で、かれらが歌っていた新曲に心打たれてしまって、改めてSMAPの重要性(日本人の精神史的、ポップカルチャー論的な意味での)に思い 至ったからである。
そのときの曲は、「Joy!」というもので、別に音楽に造詣が深いわけではないから、メロディーの解析、分析なんてできないのだが、聞いたときに「これぞ アイドル!」と思ったのである。そしてそれが、古臭いとか、ダサい、というのではなくて、どこか懐かしいような感覚を与えてくれたのは衝撃的でさえあった のだ。「青い稲妻」とか「がんばりましょう」、「SHAKE」といった、代表曲と同じ骨法で作られたのであろう。作詞作曲を担当した津野米咲(赤い公園) という若干21歳のシンガーは、サカナクションの山口一郎との対談でこう述べている。

山口 SMAPに曲作ったよね。それも聴いたよ。
津野 あ、本当ですか!?
山口 菅野よう子さんが関わってるんだよね?
津野 はい。私も一郎さんがSMAPに作った曲を聴きました。
山口 ありがとう。津野さんが作ったの、凄く『らしい』曲だったね。
津野 SMAPらしい曲ってことですか?
山口 いや、凄い赤い公園らしい曲だった。
津野 嬉しいです。そう言ってくださる方、あんまりいないですよ。
山口 実際には、SMAPっぽく合わせて作ったの?
津野 そのつもりでしたね。往年の、たとえば“KANSHAして”とか、“オリジナル スマイル”とか。
http://www.nexus-web.net/interview/interview4/

山口は、「赤い公園」らしい、と言っているが、津野自身も言っているようにそれは「SMAPに合わせて」制作された。そうなのだ、ここが多分重要なところ で、SMAPは多くの曲を売れっ子のシンガーソングライターたちに提供してもらっている。彼らは、マッキーしかり、スガシカオしかり。
彼らは、SMAPという明確な性格のあるアイドルグループにあわせて楽曲を提供した。今回の赤い公園とて例外ではない。
ではスマップの性格とはなにか、それは「80年代型アイドル」であるということである。見ていて、聴いていて「懐かしい」、それがSMAPの最大の強み だ。SMAPが体現しつづける80年代、それはなんなのだろうか。それは我々現代人がさかのぼれるもっとも古い時代感覚だ。もっと古い時代にさかのぼる人 たちももちろんいるが、団塊ジュニア世代が清純時代を謳歌した、80年代というのがもっともわかりやすく、現代日本のマジョリティーといっていいだろう。
そして、80年代、とは、80年代を実際に体験していない人々にとっても遡及する「懐かしさ」を秘めている。それを証明したのが、連続テレビ小説「あま ちゃん」だろう。震災を経て、我々は80年代に震災以前の「懐かしさ」を求めた。逆にいえば、現代の人々の原点、立ち戻る場所、あるいは、持っている歴史 は、80年代で断絶されてしまっている。それは60年代、70年代という政治の季節や、戦後復興期ではない、世界第2位の経済大国になってからの日本し か、思い出すことができないということである。
少し演劇的な話をすると、60年代アングラ演劇をちゃかす形で生まれてきたつかこうへい、そして、野田秀樹鴻上尚史。彼らは、アングラのアンチテーゼを 自認していたが、それを受容する側、観客たち、後の演劇人たちが、野田らをまねて、アングラ第一世代をすっとばしてしまった―彼らはちゃんと勉強したうえ でやっていたポーズだったのに―ために、日本の小劇場演劇は、常に時代時代に輩出される才能によって、断絶と繁栄を繰り返す。それこそ今の演劇界のルーツ は、平田オリザであり、野田ではない。だから演劇界の今持っている歴史の原点は、90年代にまで上ってきてしまっている。断絶は常に繰り返されているの だ。
閑話休題
とにもかくにも現代のサブであれPOPであれカルチャーの原点は80年代以降である。強引?ご容赦あれ。
では80年代アイドル、というものを少なくとも定義しておこう。それ以前のアイドルとはなにが違うのか。受容層が主に若者。キャンディーズみたいに老若男 女みんなペッパー警部、というのではなくて、「聖子ちゃーん!!」と合いの手を入れる若者がファンの主体。テレビのバラエティーでコントをやり、歌番組で 好きなフルーツや、最近の出来事についてコメントする人たちである。そんなところだろうか。(『シャボン玉ホリデー』でピーナッツやピンク・レディーがコ ントやってたじゃん!というつっこみには困ってしまうのですが……)
SMAPはそれを貫き通している。
言い換えれば、SMAPとは、『SMAP×SMAP』である、といえるだろう。
SMAP×SMAP』で、SMAPSMAPとしての存在価値を維持している。コントをし、歌い、わちゃわちゃする。SMAPは地球が滅亡しても『SMAP×SMAP』を続けなくてはならない。
芸能が伝統化するのは意外にあっという間なのである。歌舞伎だってそうだ。歌舞伎も幕末期にはすでに伝統芸能となっていたわけだし、そう考えれば、SMAPが90年代の始めには既に伝統芸能化していたとしてもなんら不思議ではない。
秋元康はここも視野に入れているに違いない。2010年代も押し迫ってくれば、AKBも伝統芸になっていることだろう。
『総踊秋葉馬鹿買』(そうおどりあきばのばかがい)
『聞噂握手会由来』(きくうわさあくしゅえのゆらい)
とか。失礼。へたくそでした。

松坂大輔という神話

松坂をソフトバンクが獲得へ――この報は、はたして良い知らせなのか、悪い知らせなのか……。
横浜に来てほしかった。横浜スタジアムに、県大会ぶりに帰ってきてほしかった。
つまりファン、というのはわがままなもので、時間が行ったり来たりできるということだ。彼を思い出しては、あの夏がよみがえるのであるから。
あの横浜高校のユニフォームに松坂大輔を発見し、回顧する人は多いことだろう。
そして、西武入団というドラフトのクジの行方を恨んだ神奈川県民は多いことだろう。松坂は横浜ベイスターズへの入団を望んでいたのだから。(いまだに松井 秀喜が、高校時代、阪神が希望だったことを未練に思っている阪神ファンの話を読んだことがある。松井秀喜阪神に来ていたら、もっと優勝していた、という 妄想さえファンにとっては自由だ。)
大洋ホエールズ時代からの横浜ファンにして、大の松坂贔屓のうちの母は、「怪我が……、監督に恵まれなかったのが……」とメジャーでの不運を嘆く。

松坂大輔
われわれは、平成の怪物・松坂という神話を目の当たりにしていたのだろう。
横浜高校時代のピッチング・フォーム―全身を使って、引きちぎれんばかりに手をふり、胸をはって、投げ込んでくる、躍動的で、ダイナミックな、あのピッチ ング・フォームだ―は、今でもありありと思い出すことができる。長谷川伸じゃあねえけれど、「両の瞼をぴっしゃりととじりゃあ、あの甲子園での姿 が、、、」(『瞼の母』)、である。はっきりいって、メジャーに行ってからの手投げのようなフォームには夢がなかった。薄いグレーを基調にした、赤と青の アクセントが入った精悍で大人びた横浜高校のユニフォーム―甲子園屈指の名ユニフォームといえるだろう―とあいまって、松坂の手のつけられない強さ、怪 童、怪物っぷりは、1990年代後半期における神話的物語となって人々の記憶に残り続けることとなった。それは、夏の準々決勝のPL学園戦の延長17回の 記憶とともに伝説となった。
神話的時間、円環するカーニバル的祝祭的時間空間は、演劇や、祭といった繰り返される再帰的表象にはあてはまるが、松坂大輔という肉体に、それはあてはめ るべくもない。とはいえ、大好きではあるのだ。松坂大輔の神話作用は、再びわれわれに夢のような時間を見せてくれるのか、いざなってくれるのか。松坂ファ ンは不安と期待が入り混じっていることだろう。

松坂大輔西武ライオンズに入団し、華々しいプロ野球での成績を残すことになった。怪物松坂は、プロでも十分通用した。150キロ台の速球をバシバシ投げ るそのピッチャーは、明らかに21世紀を感じさせる、文字通り次世代的感覚のピッチャーだったのだと思う(現在では150キロ代のストレートなど、珍しく もないが、その当時は新鮮なものだった)。
その怪物は、日本のプロ野球にとどまるような人物ではなかった。メジャーリーグに挑戦した。レッドソックスの赤いユニフォームもよく似合っていたし、ヤン キースと違い、やさぐれたイメージの球団で、ちょび髭をたくわえた松坂の風格は、れっきとしたメジャーリーガーだった。そして、それは横浜高校時代からの 少しヤンチャで、いたずらっ子っぽい彼のキャラクターともよくあっていた。もちろん、メジャーでも、素晴らしい活躍をした。英語のできる奥さん(柴田倫世 という年上のきれいな奥さんをゲットしたのだ)と、本格的な、アメリカ生活を現在まで続けている。しかし、近年は怪我に悩まされ、リハビリと格闘する日々 が続き、チーム移籍や、所属先の監督の冷遇といった、満足に活躍する場が与えられず不遇な時代が続いていたのである。そこでフリーエージェントで日本への カムバックが実現したのだ。家族はアメリカに残しての、逆単身赴任の形である。
ソフトバンク以上の金額をDeNAが提示できなかったというだけの話である。仕方がない。来年の交流戦阪神タイガースソフトバンクホークスの試合では、松坂が甲子園の土をふむ。
それが、ファンにとって、円環する時間となりうるのか。再び、松坂大輔という肉体は、進みゆく時間軸にどういう形でアンチテーゼをし、伝説にわれわれを巻き込んでくれるのか。
松坂よ、伝説的復活を果たしてくれ、大衆に松坂大輔を思い出させてやってくれ。

ス ポーツというものは、太古からそうなのであろうが、特に現代スポーツというものは見世物的要素が強いから、しかたないのであるが、大衆は、松坂を忘れ、新 たなスターの誕生―たとえばダルビッシュ―を消費する。スポーツは常に超人的肉体をいとも簡単にそこに存在するのが当然のこととして、浪費を繰り返す。そ こに流れる時間は、あまりに急速で、凶暴だ。ローマのコロッセオよろしく、政治の不満は見世物でコントロールされる。政治への関心が薄れたときに、スポー ツはどうなるのか。なにが先鋭化するのか。アーレントがいうように、暴力装置 の真の恐怖は、その摘発対象を失ったところから始まる。政治不信のはけ口でさえなくなったスポーツ興行は、どこに向かうのか。資本主義に呑み込まれたス ポーツには、美しい肉体の躍動があるのではなく、均質化された清潔なスターがいるだけで、それはいくらでも代替可能な肉体が陳列されているだけの空虚な数 字の羅列のようなものではないのか。物語は消費され、物語は数値化され、もはやなにも残らない。資本主義はスポーツを無味乾燥なものにした。
松坂よ!抗え!甦れ!

小渕優子議員完全応援宣言

いやはや、完全にはめられてしまった小渕優子議員。しっかし、安倍晋三界隈、原発推進まるもうけ連っつうのはやり口が汚いですわ。ほんま。エエ、腹の立つ、腹の立つ、この恨み、はらさで~、という感じです。まあ、確かに小渕さんもちょっと脇が甘かったかもしれませんが。。。とはいえ、さぞ無念口惜しや、、、松若さま、、、心中察するに余りあります。

特に、腹がたつのは、演劇を愛する人間のはしくれとして、「観劇会」という名目がやりだまにあがっていることであります!あぶらぎったおっさん議員が、料亭で飲み食いしたり、キャバクラで札びらきったりするよりは、後援会の人やなんかと芝居をみてもらったほうが、よっぽど健全ではありませんか!明治座でお芝居、いいじゃありませんか!どんどん観てください!

こういうバッシングをみていると、日本の演劇を観るということに対する見識のなさには、ほとほと嫌気がさします。バッシングしている人間どもは、明治座で芝居見物して、浜町で一杯やるとかなんとかしてからものを言え!という気が致します。おっと、こりゃ、なんじゃやら趣旨が違いました。

川口松太郎の『お江戸みやげ』よろしく、たまに(農閑期などに)江戸東京にでてきて芝居見物をして帰る、というのは、田舎の人たちにとって、上京の一定のモデルとして成立してきたはずである。歌舞伎座新橋演舞場にいくと、地方ナンバーのバスが止まっている。農協や、ゆうちょなどの観劇会である。幕間に幕の内弁当を食べる。染五郎を観る。たまの贅沢。たまには羽のばして。これが、歌舞伎や新派、大衆娯楽としての演劇の忘れてはならない客層である。今回の小渕さんの後援会の件もそういうことではないか。

まあ、お父様から引き継いだ地盤が、こんなことで、びくともしないことを期待します。議員辞職まで追い込まれたとしても、是非また永田町に帰ってきてほしいと思います。民主党の体たらくを考えると、自民党脱原発議員は頼みの綱です。

 

今日の記者会見も実に立派でありました。無念さに唇をかんでいるような、鋭い表情でありました。原発問題について、次の世代のためにやることがたくさんある、という趣旨の発言があったことは、少ない会見時間のなかで、価値があったと思います。また、「私自身、わからないことが多すぎる」という発言に、やましいことなんてない、という強い意志を感じました。また、「子どものころから一緒にやってきたスタッフ」「信頼するスタッフ」といったところに、後援組織への愛を感じました。今頃地元の事務所のスタッフは、悔し涙に目をうるませているのではないかと思います

各不用意な発言、笑っ~て許して。著者敬白。

 

会見の全文のリンクも張っておきます。


「疑念をもたれていることについて調査をし、結果を示すことに全力を尽くしたい」~小渕優子経産大臣辞任会見全文 (1/2)

「『繻子の靴』上演のための実践的研究」観劇記

「『繻子の靴』上演のための実践的研究」

作:ポール・クローデル
翻訳・構成・演出:渡辺守章
映像・美術:高谷史郎
出演:鶴坂奈央、千代花奈、永井茉梨奈
10月5日、京都造形芸術大学春秋座。

台風18号が接近しつつあり、前線の影響か、京都は10月というのに、蒸し暑かった。
10月5日、京都造形芸術大学の春秋座で、ポール・クローデルの代表作『繻子の靴』の実験試演会が行われた。
内容としては、1時間の解説(渡辺守章浅田彰(聞き手))、50分程度の抜粋場面の上演、というものであった。
さて、渡辺守章は、これまであまり注目されてこなかったマラルメの演劇への志向をクローデルというマラルメの弟子の演劇から、逆にさかのぼる形で、発見し た。その研究の成果として、マラルメの演劇論を、これまでの「マラルメ・プロジェクト」というマルチメディア・パフォーマンスの試みのなかで、3年かけ て、実践してきた。前回3月に行った公演、クローデルの『繻子の靴』「二重の影」は、その発展的試み、ということであった。シアトリカル、バーチュラル、 そしてあらゆる芸術についてハイブリッドな、マラルメの演劇論、クローデルの演劇像、このプロジェクトは、それに迫っている。

まずは、作者と作品について少し触れることにする。
ポール・クローデル(1868~1955)は、19世紀末から20世紀を代表するフランスの劇作家、詩人である。また、第一級の外交官であり、思想的に は、敬虔かつラディカルなカトリック教徒であった。少年期はランボーに感化され、パリに上京後、マラルメの門弟として、象徴主義の詩人、劇作家として出発 した。姉は有名な彫刻家、カミーユ・クローデル。日本とのかかわりとしては、世紀末のオリエンタリスムから出発し、1921年から、27年にかけて、日本 に駐日大使として駐在し、様々な文化を見聞した。それは、この『繻子の靴』にも大きな影響を及ぼしている。
『繻子の靴』。1919年から1924年にかけて書かれたこの作品は、執筆期間が彼の日本滞在時と完全に一致している。したがって、日本の伝統演劇からの 影響も多分に見られる点が、特徴的であるのと同時に、彼の人生、思想、演劇論、広大なパースペクティヴのほぼすべてが凝縮された大長編戯曲である。舞台は 世界、この地球上すべてである。時代は、16世紀、大航海時代無敵艦隊のスペイン黄金時代である。スペインの海賊上がりの将軍、ドン・ロドリッグと、ス ペインの大審問官ドン・ペラージュの美しき妻、ドニャ・プルエーズの、時にアメリカ―アフリカと海を隔て、時に夢の世界で出会いながらも、地上では決して かなわぬ恋が、天井世界で果たされるという壮大な物語である。そこに、幻想的なドニャ・ミュジーク(音楽姫)とナポリの副王の恋という副筋があり、また、 随所にファルス的な要素や、不条理劇のような場景が挿入されたりしている。
手法としては、歌舞伎や能といった、日本の伝統劇(あるいは中国演劇)、スペイン黄金時代のバロック劇、象徴主義演劇、(あるいは50年代不条理劇の先取 り的手法)テーマ系としても、老荘思想、中国の説話、キリスト教劇、自らの不倫愛、といった様々な相が折り重なった多層的戯曲である。構成としては、1日 目から4日目までに分けられている。必ずしも4日間の物語というわけではないのだが、この形式は、カルデロン等のスペインバロック演劇からとった形式であ る。

今回の上演は、1日目第5場「聖母への祈り」、2日目第13場「二重の影」第14場「月」、3日目第8場「プルエーズの夢―守護天使」という、ドニャ・プ ルエーズというヒロインに焦点を絞った場面構成であった。プルエーズの叶わぬ恋への苦悩が、その主眼である。男を誘惑し、破滅させつつ、自らもその叶わぬ 恋に苦悶し、自らの死という選択、自己犠牲によって、恋い焦がれるドン・ロドリッグと彼の精神世界、天井世界のうちに結ばれる、という禁じられた破滅的 恋。
1日目第5場「聖母への祈り」では、スペインのドン・ペラージュの妻であるドニャ・プルエーズが、ペラージュの館の門前のマリア像の前で、祈る。自らが、 自分を愛する男たちの不名誉の原因となるように。そして、悪のほうに、夫やその身の任務を捨てて、愛するドン・ロドリッグ(プルエーズとロドリッグは、以 前、ロドリッグの船が難破し、ペラージュ館の海岸に漂着したところ、プルエーズの介抱をうけ、二人は恋に落ちていたのだった。)のもとに走ってしまわない ようにと、心臓と、片方の靴を捧げる。悪の道に走り出しそうになっても、片方の足が萎えますようにと。しかし、常に逃げ出そうと画策する、とも叫ぶ。禁じ られた恋の悲痛さがほとばしる。
今回の舞台では、俳優の數の問題か、ドン・バルタザールは登場しなかった(つまりペラージュ館を出発するおり、突如として始まるプルエーズの絶叫的祈りか らである。)が、そのぶんプルエーズの情念のままに行動してしまいそうな自分への苦悶が鮮鋭化した。このころはまだ純粋な恋い焦がれる姿である。
舞台美術は元ダムタイプの高谷史郎。舞台中央、背景というには少し手前にはりだしている縦長のスクリーンに、様々な映像を映し出していくという手法をとっ ている。この場では、イエスを抱くマリアの肖像(たぶんなにかしらの有名絵画からの引用なのだろうが、小生の不勉強により、定かならず、軽薄。)が映し出 される。
2日目第13場「二重の影」第14場「月」は、ドニャ・プルエーズと、ドン・ロドリッグの夢の世界での交わりが描かれる。実際には海をへだて、新大陸アメリカとアフリカのモガドール要塞にいるのだが、夢の世界の内に、二人の影は重なり合う。
これは、前回の上演、つまり、今年3月に行われたマルチメディア・パフォーマンス「二重の影」と比較することが可能である。
前回は、台詞のないコンテンポラリー・ダンスと高谷の映像作品のコラボレーション的作品だった。白井剛と寺田みさこによるコンテンポラリー・ダンスは美しかった。そこに渡辺守章、後藤加代による朗読が加わっていた。
今回は、俳優が、台詞を言い、踊る。「マルチメディア・パフォーマンス」ではなく、れっきとした「演劇」であった。
前回の公演では、盆を回しながら、ダンサー二人の折り重なる影をスクリーンに照らし出す形をとっていたが、今回は、俳優に黒いヴェールを頭からかぶせ、身 にまとったロドリッグとプルエーズの影が、折り重なりあうという形をとっていた。雰囲気としては、20年代のノイエタンツや、表現主義的なダンスの色合い が強かったように思う。なので、前回の美しい流麗なコンテンポラリー・ダンスよりも、より、書かれた当時の同時代的な文脈にそったかたちではあっただろ う。というのも、この「二重の影」の執筆時期は、歌舞伎俳優中村福助らが結成した新舞踊グループ「羽衣会」の要請によって、舞踊詩劇『女とその影』の執筆 時期と重なっているからである。新舞踊運動とは、当時のドイツなどの同時代のモダンダンス等を日本舞踊に受容しようという大正期の演劇運動で、歌舞伎俳優 のなかでは、中村福助の羽衣会、市川男女蔵、尾上栄三郎らの踏影会が活動していたのだ。そういった1920年代の前衛芸術の流れを演出に取り入れたのであ ろう。
スクリーンには、窓が二つみえる白い壁が映し出される。スペイン風のアフリカの海岸沿いの白壁。高谷の映像美術が美しい。細密な映像美術と抽象的な俳優の動きの混ざり合いであった。
前回、ダンスに朗読、という形で成立していたのは、その台詞が、二人の影が語るという構造だからである。「このわたしは、わたしはいったい誰の影といえば よい?引き裂かれた男と女、それぞれの影ではなく、そうではなくて、二人同時に、わたしのなかで互いに一つにいりまじり、ただ一体の異形な黒い影、この新 しい存在とはなった。」今回は、二人の俳優が同時に台詞を唱える。歌舞伎などで使われる篠笛の音が、ときおり聞こえてきては、幽明の世界であることを物語 り、場に緊張感を与える。
そして、「月」の場。影は消え、スクリーンに大写しの月が出現し、実際に月役の俳優が登場。この月役の女優はなかなか長身で、台詞もうまく、舞台映えがし た。よかった。(永井茉梨奈)この場は、月という役が、二人について物語るという、語り物構造をとっている。初版では月しか登場しないが、上演台本にする 際、プルエーズの台詞のところには、プルエーズの役名が明記されており、ロドリッグの役に関しても同様である。今回の上演でも、その方式をとっていたが、 文楽の太夫のごとく、すべてを月が語るという方法も可能である。「今ようやく、しっかりと分かったのだろうね、男と女は、天国以外の場所では愛し合うこと ができないと。」
3日目第8場「プルエーズの夢―守護天使」。
プルエーズは、この時点で、すでに、最初の夫、ドン・ペラージュの死後、モガドール要塞守備のため、背教者ドン・カミーユ(そういえば、カミーユという名 は、クローデルの姉と同じである。)と政略結婚し、子供までもうけているのである。しかもその子供は、一度もロドリッグとの性交渉がないにも関わらず、ロ ドリッグと瓜二つなのである。
プルエーズは眠っている。異国趣味の布のなかで。スクリーンには、地球が映し出される。その地球は、白い雲なのか砂嵐なのかというようなものにけぶりなが ら、日本列島に変容し、また、富士山になり、富士山は、プルエーズの守護天使へと変容する。ここでも、高谷の映像技術がフル活用されていた。こういったス クリーンの使用は、単なる思い付きで現代のテクノロジーを組み込んでいるのではなく、クローデルによって、すでに志向されていることである。クローデルは すでに当時先端的表象芸術である映画の演劇への使用を模索していた。それは、ラインハルトら、同時代人たちと同じか、彼のほうが少し早いくらいである。こ の『繻子の靴』の次の作品、『クリストファ・コロンブスの書物』では、さらに明確にそのスクリーンへの投影技術の使用への言及がある。
ロドリッグの声が聞こえてくるが、それも次第に聞こえなくなる。そして、守護天使が登場する。文庫の注によると、これは、クローデルの中では、奈良で見 た、という毘沙門天のイメージである。守護天使とプルエーズの対決。プルエーズは、守護天使によって、魚を釣るがごとく、心臓にささった釣り針によって、 海へと引き戻されてしまいそうになる。演出ではこれをクローデルが滞日中に見た『桜姫東文章』の改作ものからクローデルが着想したと「連理引き」の手法を 使ってそれを表現した。守護天使は、エキゾチックないでたちで、日本的というよりは、ヨーロッパ的文脈でのオリエンタリスムがイメージする中東、イスラー ム圏の様相である。そして、歌舞伎的というか、バリ島の舞踊のような、記号的動作(アルトーが『演劇とその形而上学』で述べるような)である。プルエーズ の肉体はもはや用がなくなり、魂のみとなる。この世においては、その魂と肉体が、ロドリッグを苦しめ続ける。だが、もう少しだけ、プルエーズは、彼が自分 のもとにやってくるまで、この苦しい現世にいさせてくれと懇願する。守護天使は、死して彼女が星となることを約束し去っていく。
とりあえず、眼目は、クローデルの劇文体を日本語でどのように発話しているか、という劇言語の問題なのであったのだが、そこに関してはなかなか考えるとっ かかりをみいだせなかった。しかしながら、文庫版の『繻子の靴』で試みられているような、独特な改行、句読点といった翻訳の手法は、セリフ回しの端々に表 れているように感じられた。これはなかなか難しそうな台詞であり、俳優はさぞたいへんであったことだろうと思われる。
ともあれ、やはり戯曲を読んでいるだけなのと、実際に舞台化されている作品を見るのでは、見え方が全然違う。勉強になり、個人的に大変うれしい機会でありました。

渋谷の移ろい

先日渋谷の東急プラザに家族で食事に行った。エレベーターを降りたら、今年いっぱいで閉館するという掲示が目に飛び込んできた。それに関連して、お 客さんに思い出を書いてもらったカードを募集していて、そのうちいくつかを展示していた。みんな東急プラザへの思いを寄せていた。唐突なことに、寂しさと 同時に、寂寥とむなしさを感じつつ、オープン当初の学生時代から通っているといったり、親子三代で利用しているといったものに目を通すと、49年という歴 史と、そこに刻み込まれた人々の記憶というものにふっと思いをめぐらさずにはいられない。東急プラザ渋谷という50年選手の、低い天井高のフロアへの愛お しさがより一層こみあげてきた。
小さいころは家族で紀伊國屋書店に来たり、ロゴスキーで食事をしたりした。窓から見える首都高3号線越しのアコムの真っ赤な電飾の広告が印象に残っている。
中学、高校となんとなく渋谷という街から遠ざかっていたが、大学生になってまたお世話になるようになった。今でもよくなんとなくぶらぶらする。しかし、東急プラザには近くは通るものの中に入ることはほとんどなかった。なんとなく出かけることになったのも、なにか虫の知らせだったのかもしれない。

渋谷の街が激変していく。まあ、完全に再開発が終わるのは2027年とからしいから、オリンピックにはちょいと間に合わないところもあるだろうが、ある程度はオリンピックに合わせてくるであろう。
渋谷川のドブ川を川らしく戻して、その周りを緑道とショッピング街に再開発するプロジェクトもあるみたいだし(明治通り沿い、渋谷警察の向かいあたり。地 上げが進んでいる)、東急プラザも、東急東横店も、再開発となる。ヒカリエと合わせて、数年後には見違える姿になっているだろう。(小汚い渋谷駅も、こう 再開発の話が決まってしまうと愛おしく思えてしまう。)しかし、渋谷駅の再開発は始まっているのだから、その波が東急プラザにまでも当然押し寄せるであろ うことぐらい予測がついてもおかしくないのだが、うっかりしていた。

竜王戦

ブログ始めました。

 

今日の挑戦者決定トーナメント、羽生郷田戦は、羽生四冠の圧勝でした。行方糸谷戦は糸谷6段が勝ち、挑戦者決定三番勝負はこの二人で争われることになりました。

 

羽生四冠には永世七冠の称号がかかっているので、にわか将棋ファンとしては、羽生さんに挑戦者になってほしいと思うところであります。

 

テストテスト。

 

これでいいのかな。

 

チェックワンツー。